夏子さんがいなくなって、1か月が経とうとしています。
ママも一緒に夏子さんの最期に立ち会えたのは、夏子さんの思いやりかもしれないと感じています。
幼犬の頃は、わたしが世話し、パパが遊んであげる生活でしたが、晩年の数年は、ほとんどパパが世話をし、夏子さんも“パパ大好き”でしたので、わたしとの接点は少なくなっていました。
また夏子さんが居なくなることの心の準備も必要で、パパのその後の方が心配でした。
夏子さんの死後、思い出の整理をしながら今この気持ちを書き留めておきたいと考えたパパの行動には大賛成で、むしろそうしてもらいたいと思っていました。
パパの悲しみとショックは予想以上に大きく、二人で時間を持っていろいろ語り合いました。
夏子さんの死を乗り越えて、パパは生きていかなければなりません。
一人で書いているだけでは何にもならない・・・。
夏子さんのことをほかの人にも知ってもらいながらパパのリハビリが可能なら、そんな良いことはない。
リハビリ目的ですからどんな感想をもらってもいいじゃないか。早くサイトを立ち上げることを勧めていました。夏子さんの知り合いは少なく、すぐに知らせることのできる人数でサイトもすぐに見てもらえました。身近な人たちなので、当面はパパの気持ちはストレートに通じる状態だと思います。
でも、そのうちいつかひょっこり全く知らない方も見てくれることがあるでしょう。また犬に関心のない方も読んでくださるかもしれません。飼い主にも。いろいろな考え方や動物との距離の取り方があることを知ってもらえるのは良いことではないかと思っています。今現在、ペットの高齢化を経験されている方は、同感される方もおられるかもしれません。
わたし自身は、1か月経った今、自分の気持ちがよく分からない状態で、パパの様に素直に泣いたり悲しんだりが出来ません。もちろん寂しいですし、存在しないことの虚しさはあります。
でも、じゃあ、またわんこと生活したいかと?と問うと、(まだ今だからかもしれませんが)今後また同じ生活を望むかどうかは分かりません。
確かに夏子さんと過ごした14年は楽しく笑いに満ちた生活でした。若い時は、活動的ゆえに手もかかりましたが、人間中心の生活はなりたっていました。しかし、老いていくほどに、夏子さんの様に持病があると通院や治療、太らせないためのケアなど、経済的にも必要がありました。
ふっくらした顔が肉薄になり、毛も白くなり背骨がとんがっていく夏子さんを見ながら人間の老いを見ているようでした。
犬は老いも病気も理解できない(と思うのですが)、気持ちはずっと“乙女ななっちゃん”なのにつらいだろうな・・・と思っていました。
発作で苦しみのうちに亡くなってしまうと覚悟していましたが、息を引き取る数分前、心臓の音は弱くなりましたが、本当にドラマのように穏やかになったのです。パパがしっかり夏子さんの顔の前にいて垂れた耳をめくって「なっちゃん!なっちゃん!」と呼んだ後、夏子さんは吠えたのです。感動的でした。ママは背後から見守りました。立ち合いましたが、ママには何も言っていないと思います。ただ、夏子さんはパパと共に居ることを理解したと思うので、安心したのか、もっと一緒にいるつもりだったのか・・・。
夏子さんとママの関係が薄くてママは複雑な気持ちなのかもしれません。そして、ずっとパパの世話をしてくれた夏子さんがいなくなってママはどうやって助けになればよいかが分かりません。