怪我と弁当は自分持ち

森さんの後輩、林さんが現場でケガをしました。先輩からは「怪我と弁当は自分持ちだから気を付けろ!」と常々言われていたのに・・・。

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怪我と弁当


ケガのことはひとまず置いておいて、弁当は仕事人にとって楽しみの一つ(唯一?)
特に体を使う仕事において弁当は、エネルギー補給と休息のひと時。
コンビニのない山で、自前の弁当を忘れたら悲惨!
弁当の中身は期待できない(家の場合は)けど、山で食べると何でも美味しいと感じるのは不思議なものです。
そんな楽しみの対極にあるのが、ケガ
誰もケガをしたいわけではありませんが、不注意や予期せぬ出来事が重なって事故は起こります。

森さんはなぜ、「怪我と弁当は自分持ち」と言っていたのでしょうか?
弁当と同じく、「怪我の責任も自分持ち」ということでしょうか?

雇い主や先輩が言う場合


自分で持つのは、ケガの「責任」ではなく「痛み」のこと。
「痛み」は誰も肩代わりはできない、ケガをして痛い思いをするのは本人自身です。「だからケガをしないよう気を付けろ」という訳です。
昔は、責任つまり金銭的な「痛み」も含まれていたことでしょう。
現在、金銭的な「痛み」(労災掛け金や休業補償など)は、会社が負うことになります。
会社が負うということは、周り周って自分に返ってくるわけですから、金銭的な「痛み」を全く感じないという訳ではありません。
皆が「痛い」思いをするので、「ケガだけはするな」と言いたくなります。
しかし、林業では死亡事故も多いので、真っ先に思うことは
「ケガで済んでよかった」
命だけは誰も取り返せないので

怪我をした本人が思う場合


仕事人(職人)の間では、ケガする=仕事が下手、という意識が。
なので、ケガをすると「痛い!」と同時に「やばい!」と感じます。
次に、自分のケガの程度をなるべく低く見積もろうとします、
「これぐらい大したことない」、「これぐらい我慢できる」と。
よく言えば、仕事人の誇り、責任感であり、悪く言えば、単なる見栄です。
過去にこんなことがありました。

「班長、チェンソーで右足の甲を少し切ったので、先に丁場(皆で弁当を食べる場所)で休んでもいいですか?」
「構わんけど、医者に見せなくてもいいのか?」
「多分、大丈夫です」
「一応、見せてみ(チェンソーで切って大丈夫なわけがない)」
わたしが“くらっ”となるくらい大きな傷口(10センチ前後)
チェンソーによる切創はやはり無残、幸い出血は少ない様子。
「病院で消毒、縫合せんと治らんぞ。すぐ下山の準備をしろ!」

20代前半の若い子でしたが、決して彼だけの反応ではなく、自分を含めたいていの人が血を流しながら言います、「これくらい大丈夫」と。
ケガを隠すことはですが、「怪我を“恥じる”気持ちは自分持ち」、今後ケガを繰り返さないためにも。

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「怪我と弁当は自分持ち」では済まされない現実


事故の発生頻度を測るバロメーターの一つ、「死傷年千人率」
労働者1000人いたとして、1年間で何人の死傷者がでるか、を示す数字。
全産業平均値で2.3人(平成25年度)
最近事故が多いと指摘される“建設業”で5.0人
“林業”で28.7人、ダントツ!
ケガすることを正当化するつもりはありませんが、個人的に気を付けるだけでは事故を防げない事情があるだろうことは、察していただけると思います。
ここ10年、業界全体で取り組んできた、安全対策については改めて。

林さんの右足は?


大きな木の下敷きになった割には、軽症の「打撲」で済んだ様子。
広葉樹やスギ山では表土が堆積し、それが“クッション”になり助かることもあるのです。ただし、自分一人では足が抜けなくなることも。
ケガで動けなくなることもあるため、山林でのひとり作業は危険。必ず、複数で作業し、互いに安全を確認し合います。
そのような仲間と山で食べる弁当は、さらに美味いのです。

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